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迷いを鎮め、力と勇気を授け、開運と幸運へ導く

天翔九頭龍

十和田青龍大権現 南祖坊

青龍権現が鎮座する御倉半島「御室」。神聖な御室の祠の後に鎮座する,噴火でできた巨大な層の天然岩。

その天然岩の層には、まるで、誰かが描いたかのような、「”龍の目”」と呼ばれる岩盤の脈で出来た壁画が、鮮やかに浮かび上がっています。「青龍権現」が鎮座する御室の岩盤の脈、天が刻んだ「”龍の目”」です。平安後期以来、御室に鎮座する「青龍権現の化身の象徴」とされてきました。

​平安時代、御室で一念に唱えた「南祖坊の法華経」が岩盤を貫き、祈りが、天に届いた証と伝承されています。法華経とは、万人の平等と全ての生類の救済を唱え「すべての生き物は分け隔てなく平等に成仏できる」と説く、大乗仏教の最も重要な経典の一つとされています。

青龍権現の「”龍の目”」は、時には、「巨大な雲形」となり、紅葉の八甲田山頂や十和田八幡平国立公園全域に、巨大なその姿を現します。冬の八幡平「鏡沼」に「ドラゴンアイ」として現れたり、また、青龍のご加護を授かるとされる
御前ヶ浜では、行き交う船も、風も無く、鏡のように光る湖面に、突如、押し寄せる波!ふと、参詣者が気が付くと、いつのまにか静まりかえることがあります

​こうした現象は、ご祈祷やご祈願、ご
散供打ちに訪れた参詣者の祈りが青龍権現へ届き、天翔青龍が「御導きくださるお知らせ」とされ、必ずや【ご利益が訪れる現象】と、伝承されています。


古来より、十和田湖の「カミ」青龍大権現と本地仏聖観音のご利益を得るために、長い道を歩いて「難行苦行」の功を積み、霊山十和田の参詣を行ってきた史実は、【新たな未来】へと、世界中から十和田八幡平の聖地「十和田神社」に訪れる人々を介して、受け継がれていくことでしょう。
奥院「龍の目」
世界​初公開!
「御室」と青龍権現化身の象徴「龍の目」
最も神聖な御倉半島「御室」
鮮やかに浮かび上る巨大な「龍の目」
天が南祖坊に授けた青龍権現の証
五色岩から御倉半島の先に少し行った所に、一つの洞窟があります。この洞窟は、南祖坊が一念に法華経を唱えた「御室(おむろ)」と呼ばれる、最も神聖な場所で、入り口には「奥院(おくのいん)と書かれた札」が立っています。

また、「奥院」に向かいすぐ左手の波打ち際には、岩でできた小さな洞窟のようなものがあり、その入り口には「南祖坊の石像」が立っています。輪郭などの形状は、波で浸食されていますが石像であることが確認できます。湖水の水量により、湖面に姿を現したり隠れたりしています。


古来より、十和田湖の「カミ」青龍大権現と本地仏聖観音のご利益を得るために、長い道を歩いて「難行苦行」の功を積み、霊山十和田へたどり着いた参詣の最終目的は、南祖坊が鎮座する奥院「御室」を正面に、拝みながら「散供打ち」を行い、「青龍大権現/南祖坊」御倉半島に祈願することこそが、参詣(信仰)の最終目的とされてきました。

武田千代三郎の『十和田湖』(1922年)には、「湖岸の赭岩に一洞窟あり、洞口穹形を為して、一大巨室に通ず人敷十を容るべし、室の左右に隧道あり、右なるは深さ十間許り、左なるは三十間を越ゆ、炬を携えて侵入すれば、無数の蝙蝠人面を撲つて狼狽す、之を御室と云ふ」と、奥院の様子が記されています。

​また、近年では、奥院を訪れ「龍の目」を見た人は御室で不思議な体験をしたり、「龍の目を見ていると、まるで宇宙の銀河系を見ているようだ」とし、「宇宙に通じる奥院」と論ずる方もいます。

​※注意)奥の院に無断で入ることは、禁じられています。所定の申請をし「許可証」が必要です。「許可証」なき者の入場は、固く禁止しされています。
御室/奥の院傍の岸の岩洞窟入口に設置された南祖坊湖面の石像
​南祖坊の石像
御室に鎮座する青龍権現の化身「龍の目」画像
​御室「龍の目」
十和田神社占い場に設置された祠
十和田神社占い場
八幡平鏡沼に現れる「ドラゴンアイ」
八幡平鏡沼に現れる青龍権現の化身ドラゴンアイ(龍の目)
銀河系画像
宇宙の銀河系
八幡平鏡沼に現れる青龍権現の化身「土ラドンアイ」
銀河系を彷彿させる
ドラゴンアイ(龍の目)
秋田側観光台から望む十和田湖全景
​霊山十和田は、熊野、日光、白山、出羽三山に匹敵する霊山だった!

十和田神社は、明治初年の神仏分離以前は「額田嶽熊野山十灣寺」を号する神仏習合の寺院であり、十和田青龍権現を祀り、現在の拝殿の場所に観音を本地仏として安置する仏堂「十和田御堂」が建っていました。

 

また、十和田神社の右奥の岩山を登った先の台地は、南祖坊が入定し青龍権現となったと伝える中湖(なかのうみ)と「カミ」の宿る御倉(おぐら)半島の「御室(おむろ)、奥の院」をのぞむ神聖な場所であり、台地を降りた中湖の水際には、参詣者が占いと祈り(散供打ち)を行う占場(オサゴ場)がありました。

その頃は、十和田湖自体が聖域であり、十和田火山外輪山の内側は本来、女人禁制の世界でした。
人々は、その全体を「十和田山」と名付け、カミの住む山の意味で「御山(おやま)」と呼んでいたのです。

​​​​​外輪山への登り口は、御山に入る入り口になっており、川や滝、鳥居や神社が俗界と聖域を分ける最初の結界となっていました。そして、参詣者が長い山腹の道を登りきって最初の外輪山山頂の峠に至った時、突如、視界が開けて眼下に湖水が広がる、そこが第二の結界であり、湖を礼拝する遥拝所が置かれ、峠を下った湖畔には、最初の散供打ち場「占場」が設けられていました。

 
人々は、さらに湖畔の長い道をたどり、第三の結界解除川(はらいかわ、現在の神田川)でみそぎを行ったあと、林立する鳥居と杉並木の参道を通って、御山の中心「十和田御堂」に至っていたのです。
何祖坊の生誕

十和田​青龍大権現 南祖坊について

​霊山十和田開山の「上人」! 伝説の僧侶 南祖坊/なんそのぼう

​南祖坊の生誕について
貞観年間の860年代、平安時代に熊野権現の申し子として、南部町斗賀に生まれたとされています。
南祖坊(なんそのぼう)と通称され、広く親しまれてきた伝説の僧侶で、宝照山普賢院(旧称:七崎永福寺)第2世・月法律師(がっぽうりっし)の弟子となり、月法律師の下で学問を修め(7歳〜10年間ほど)修行したとされています。

その後、熊野三山や全国行脚の果てに、十和田湖に結縁して龍神「十和田青龍大権現」になった、伝説の僧侶とされています。

宝照山 普賢院には、南祖坊の御像である「南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)」が祀られ、『十和田山神教記』の「写本二冊が所蔵」されています。(※詳しい「普賢院」の詳細については、下段のリンクをご参照下さい)



「宝照山・普賢院(旧称:七崎永福寺)」第65世住職【品田泰峻】 合掌)
​ 2021.10取材記録:NBC Entertainment(株)CEO・写真作家・七崎神社保存「永久の会」 創設者顧問  
中村石治
南祖坊生誕地斗賀神社全景
​斗賀神社
 
南祖坊生誕の地��斗賀神社拝殿全景
​斗賀神社
 
南祖坊修業寺普賢院本堂(旧称:七崎永福寺)
南祖坊が修業した普賢院(旧称:七崎�永福寺)全景
宝照山 ​普賢院
(旧称七崎永福寺)

南祖坊修験者一派説の【霊山十和田開山の拠点】と推定される
七崎観音堂(七崎山徳楽寺/現在の七崎神社)と七崎永福寺(現在の宝照山 普賢院)

霊山十和田開山の拠点
​「七崎観音堂」(通称七崎観音):後世になってからの寺号は「七崎山 徳楽治」と称し、明治8年に「七崎神社」と奉称されています。※以下には、明治以前までは「七崎観音堂」と表記し、明治以後については「七崎神社」と表記致します
十和田御堂の寺号が「額田嶽熊野山十灣寺」(額田嶽は八甲田山)であったことから分かるように、霊山としての十和田山は、≪糠部側から開山された熊野修験系の霊山≫だったと推定する、説があります。霊山十和田開山説については、七崎の存在が大きな鍵を握るのは確かとされていることから、以下に、一部をご紹介いたします。

南祖坊による霊山十和田の開山は、平安時代末期とされており、南祖坊修験者一派説の霊山十和田開山の拠点となっていたのが、現在の八戸市豊崎町にある「七崎神社」(旧称:七崎観音堂)と、「宝照山 普賢院」(七崎観音別当及び盛岡南部藩の祈願寺とされていた旧称:七崎永福寺 )の一帯と、推定されています
八戸市豊崎町にある創建834年の七崎神社は、八戸市で最も古い郷社とされ、創建期は「七崎観音堂」(後世の寺号は七崎山 徳楽寺)と称し「修験の大規模な拠点寺社」だったとする史実が判明し、「南祖坊修験者一派が実在した」とする説があります。下記の明治期の模写風景をご参照ください。

明治天皇御巡幸を控え、青森県がまとめて国に提出した明治期の「七崎山 徳楽寺」の模写で、『新撰陸奥国誌』明治5年/1872刊に掲載された「七崎山 徳楽寺」一帯の風景模写・東京大学資料編纂所収蔵謄本写本を基に、平成19年に七崎神社で、約200年前の江戸時代の古文書「補任状(ぶにんじょう)」6枚が発見されたことを機に、地元の歴史研究などの為に、坊名などの文字を、追記した画像です。

 七崎神社では、平成19年に約200年前の江戸時代の古文書「補任状(ぶにんじょう)」6枚が発見されています。「補任状」は、修験道(しゅげんどう)の総本山である、熊野三山(熊野本宮大社、熊野神宮大社、熊野那智)奉行の検校(寺社の総務を監督する役職)が、発行したものでした。この「補任状」は、それぞれ1813年(文化10年)、1838年(天保9年)、1859年(安政6年)に書かれた書類で、七崎の3人の修験者・善行院栄元、善学院栄貞、善明院栄隆の担当地域を定めた認証状(許可証)でした。

 そこには、新郷村戸来の修験者・多聞院の名もあり、当時、五戸・新郷・豊崎が盛岡南部藩領であったため、盛岡の修験者の系統下にあったことも分っています。
七崎神社本殿拝殿脇に鎮座するご神木「八戸文化財:昇龍鉾杉」
七崎神社本殿・拝殿と昇龍鉾杉文化財
​絵図の本堂の位置に現在の拝殿が建っています
『新撰陸奥国誌』明治5年/1872刊掲載された、明治期に於ける「七崎山徳楽寺」周辺の風景模写
※上記画像について:普賢院第65世住職【品田泰峻】 合掌によると、六供坊は三戸の寺領にあったもので七崎観音堂には六共坊は存在しなかったとしています
修験道とは、平城京に都があった奈良時代(710年〜794年)に成立した、日本独自の宗教で、外国にはない山岳信仰と仏教が習合した信仰です。

七崎観音堂創建後いつの時代かは定でないが、徐々に、「修験者たちの大規模な拠点寺社」が形成されていったと、推定されています。南祖坊による霊山十和田の開山は、平安時代末期とされていることから、同時期頃には、修験者の拠点とする寺社が形成されていたのではと、推定されています。
下段に描かれた「寺内門」通りに沿って修験者の坊がいくつも立ち並び、修験者たちの活動の拠点だった名残がうかがえます。画像中央右には、善行院修験寺院(現在の七崎神社の元宮司宅)があり、左側には、大覚院修験寺院(現在は、大きなかやぶき家屋が解体された広い空き地)があります。
七崎観音堂創建期から別当寺院(本坊)だった、南祖坊が修業したとされる七崎永福寺(現在の普賢院)は描かれていませんが、七崎観音堂(後世の寺号:七崎山 徳楽寺)に至る、約300m手前右側に位置します。
七崎神社東北最大級のご神木「北斗の大杉」八戸指定文化財天然記念物
七崎神社東北最大級の
北斗の千年大杉推定樹高45m
八戸市指定文化財

 
修験道の一大拠点だった、現在の七崎神社拝殿
現在の​七崎神社拝殿
観音堂と同位置に鎮座
七崎神社修験者業屋堂
七崎神社
修験者行屋堂(籠堂)
普賢院本堂(旧称:七崎永福寺)
宝照山普賢院
​(旧称:七崎永福寺)
 南祖坊は、幼少期から七崎永福寺の僧侶とされており、また、十和田山開山の上人と周知されています。十和田山は、平安時代末期から続く「十和田信仰」の中心で、十和田青龍権現を祀り、熊野、日光、白山、出羽三山に比すべき北東北最大の「山岳霊場」でした。

七崎神社境内には、古来より籠堂(こもりどう)があり、修験者たちが熊野三山に参詣に向かう前に、ここで身を清めていたとされています。南祖坊が修業したとされる七崎永福寺は、七崎観音堂創建期からの別当寺院であり、修験者寺院の本坊とされています。
現在の宝照山普賢院第65世住職【品田泰峻】 合掌によると:
〇20年前までは、当山にも「お籠堂」があったとしています。
〇七崎の修験者たちは、「本山派修験」で資格を取った後、当山(旧称:七崎永福寺)住職に、当山派修験も含
めて、諸作法の伝授を受けていたとしています。
〇籠堂は、遠方の霊山のお山入りの為だけに使用された堂ではなく、日常的な、精神潔斎や”おこもり”にも利用された史実があると、語っています。

以上の経緯や諸説から、南祖坊は、七崎観音堂や本坊の七崎永福寺の「籠堂」で身を清めた後、熊野三山や全国行脚に向かったのではと推定されています。

七崎神社は、平成19年に約200年前の江戸時代の古文書「補任状(ぶにんじょう)」6枚が発見されたことを記念し、「熊野三山出羽三山行屋堂」が再建され、平安時代から修験者たちの大規模な拠点だった史実を、大切に保存しています。
【別当寺院 七崎永福寺(現在の普賢院)について】

宝照山 普賢院には、南祖坊の御像である「南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)」が祀られ、『十和田山神教記』の「写本二冊が所蔵」されています。

◆普賢院(旧称:七崎永福寺)の草創期の寺号(お寺の名称)は不明としています。普賢院過去帳に、当山開創(初代住職)圓鏡(えんきょう)が弘仁8年(817)に亡くなられたとあり「810年頃に開創」と公開している根拠はそこにあります。諸説を踏まえ、最近では「延暦・弘仁年間に開創」としています。


◆旧称「七崎永福寺」という寺号は、鎌倉〜江戸期にかけて用いられており、近世の史料によると永福寺という寺号の由来は、神奈川県鎌倉市二階堂の「永福寺(ようふくじ)」にあります。永福寺(ようふくじ)の僧・宥玄(ゆうげん)が南部氏​より三戸に建立された永福寺(えいふくじ)を任され、その時に、七崎の地も恩賞として与えられたとしています。それにより、古来より七崎にあった当山の管理も行うこととなり、「永福寺の僧侶が管理するお寺」ということで、いつしか、当山も、永福寺と称されるようになったとされています。

◆「旧称「七崎永福寺」は、南部藩の祈願寺」として、広く知られています。盛岡に本坊・永福寺が構えられた後、七崎永福寺(現普賢院)と三戸永福寺(嶺松院)を自坊とし、遠隔地でありながら、直轄寺院としています。永福寺は南部盛岡藩の筆頭寺となり、多くの末寺を抱えることになり、当山は、その祖院にあたります一時、本坊・盛岡永福寺には住職として京都の仁和寺より院家が迎えられ、格式がとても高くなりそれに伴い、お寺の縁起や由緒もそれに見合った形に手直しされたりしています

 
以上、
取材記録2021.10:NBC Ent.(株)CEO/EP・写真作家・七崎神社保存「永久の会」 創設者顧問  中村石治
「宝照山・普賢院(旧称:七崎永福寺)」第65世住職【品田泰峻】 合掌)、奥田卓司:八戸市連合遺族会長・「たかんな」編集長・元教師
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​修験者たちの修験道とは
修験者達の修業とは
 十和田山は、俗界を離れた清浄な地、自然の霊力に満ちた奥深い山岳・湖水であり、仏教者や修験者が山岳修業を行うための場所として開かれた霊場でした。修験道の「修業の行場」が各所に設けられていました。

「修験道」は、厳しい自然環境にあえて身を置くことで心身を鍛錬し、悟りを開くことを目的とします。「修験道」は、日本独自の宗教で、外国にはない山岳信仰と仏教が習合した信仰で、霊山・深山幽谷に分け入り、厳しい修行を行うことによって、超自然的な能力を得て世を救済しようという宗教でした。そして、山々に伏して、修行する姿から「山伏」と呼ばれていました。
 
修剣者たちの三つの要素
  1. 俗世からの隔絶(秘境性)
    世俗的な喧騒や誘惑から離れ、修行に専念できる環境であることが不可欠です。人里離れた山奥や深い渓谷、容易に立ち入れないような場所が選ばれます。

  2. 厳しい自然環境
    修験道は、厳しい自然環境にあえて身を置くことで心身を鍛錬し、悟りを開くことを目的とします。そのため、寒さ厳しい滝つぼや、暗く湿度の高い洞穴など、肉体的な苦痛を伴う場所が適しています。

  3. 霊験あらたかな場所(宗教的意義)
    単なる物理的な厳しさだけでなく、その土地が山岳信仰や神仏習合の歴史において霊場とされてきた場所であることが重要です。修行者は自然そのものを神仏の顕現と捉え、畏敬の念を持って修行に臨みます。 



 修験道は、平城京に都があった奈良時代(710年〜794年)に成立し、開祖は役小角(えんのおづの)、または役行者(えんのぎょうじゃ)という呪術者でした。役氏は、当時大和国や河内国に多数存在した一族で、役小角は実在した人物とされています。しかし、修験道の開祖としての人物像などは、後に創られたとされています。役小角は634年に現在の奈良県御所市に生まれ、現在は、その地に吉正祥寺が建立され功績が伝承されています。
利直の十和田信仰と霊山保護と
​盛岡南部藩二代藩主「南部利直」の【十和田信仰】
​「南部利直の霊山十和田保護」
十和田湖は、嘗てカミの山、「御山」と呼ばれ、東北有数の霊山・山岳霊場でした。その開山は平安時代末期にさかのぼり、江戸時代には盛岡南部藩「利直」の保護を受けて、大いににぎわった歴史を持っています。

南部 利直(なんぶ としなお)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名で陸奥国盛岡藩初代藩主です。官位は、従四位下・信濃守。南部氏27代(盛岡南部家2代)当主で、
十和田信仰は篤く、自ら、南祖坊の生まれ変わりと唱え、法名を「南宗院殿月渓清公」としたとされています
盛岡南部藩参勤交代の模様
盛岡南部藩聖天永福寺
​盛岡聖天永福寺

自ら、南祖坊の生まれ変わりと唱え、法名を「南宗院月渓清公」とした「利直」について、祐清私記』では「南部利直が寝ている姿を見ると、蛇身に見えた」という話の後に「南部利直の夢に南祖坊が現れ、私は、蛇身を免れるために貴公に生まれ変わった。と、告げる」。利直が、このことを次衆に告げると、これを真実と考える者が多かったとされています。

 

利直が寛永年間に江戸で没した時、国元の東禅寺の大英和尚と江戸の金地院が、それぞれ双方夢の話を全く知らず相談したわけでもないのに、お互いに、同じ、「南宗院殿の号」を撰んだとされています。

利直が南祖坊の生まれ変わりであることは、これによっても明らかであるとし、≪利直の葬儀が三戸で行われた時、空がにわかにかき曇って大雨電雷した」と記されています。

「盛岡」の地名は1691年(元禄4年)6月に南部重信と盛岡永福寺の僧正、清珊法印(せいさんほういん)の連歌によって、「森岡」が「盛岡」と定められたとしています。三戸と豊崎の永福寺は、盛岡へと統合され、盛岡の永福寺は、山号を「宝珠盛岡山」と称し、盛岡五山の筆頭で藩累代の祈祷寺になっています。竜神池のほとりには、青龍大権現堂があったとしています。

​盛岡南部藩二代藩主「南部利直」の【霊山十和田の保護】

十和田湖休屋に置かれた十湾寺を盛岡藩は外からの勢力に対し保護し、十和田湖周辺には熊野系の修行をしない他勢力を寄せ付けなかったため、出羽の山伏は、遥か、御鼻部山から参拝して戻るしかなかったとされています。

明治時代初期に初めて休屋を開拓した栗山新兵衛の目的は、盛岡藩と犬猿の仲であった弘前藩に対する国境警備のための屯田開発が、最大の理由でした。十湾寺への参拝者は、江戸時代には、盛岡藩領の全域からが主になっていましたが、他に八戸藩からと、遠く仙台藩からの参拝者もいたとされています。しかし、弘前藩秋田藩からの参拝者は、記録されていません。

南部藩の十和田信仰も篤く、5月15日の十和田御堂の例祭には、五戸代官が藩主の代参を行ったとされています。

 

十和田参拝道の管理や休屋の参道杉並木も藩の手で整備され、民衆の十和田参拝も江戸時代に全盛期を迎え、女人禁制も解けて、田植え過ぎの5月15日(旧暦)の例祭には男女数百人の参拝者がいたとされています。1681年(延宝9年)には民間の力で御堂が新造され、参拝道の道沿いには、村々の民衆が寄進した石灯籠や石の道標が作られ、今も残されています。

近世の十和田参詣道

子ノ口にある「十和田山新道」普請の碑、元禄6年、十和田湖までの五戸道と七戸道の参拝道を改修した記念碑江戸時代に十和田湖に至る主要な参詣道は、5つの道がありました。

  • 五戸口道 - 霊山十和田開山の南祖坊の拠点だった五戸七崎(現在の豊崎町)の中世の七崎永福寺を起点に、外輪山東端にあたる月日山(つきひやま)から長い山道を登り、銚子大滝の上の外輪山山頂で十和田湖を遥拝して、銚子大滝、宇樽部をへて御堂に至る、五戸口道。

  • 七戸口道 - 上北郡奥瀬(現在の十和田市奥瀬)を起点に、惣部(そうべ)で五戸口道に合流する、七戸口道。

  • 三戸口道 - 三戸郡貝守(現在の三戸町貝守)を起点にした、三戸口道。

  • 白沢道 - 毛馬内(けまない)を起点に大湯、白沢、発荷峠(遥拝所)をへて御堂に至る、白沢道。

  • 藤原道 - 毛馬内を起点に、七滝、鉛山峠(遥拝所)、発荷峠の下の現在の生出(おいで)キャンプ場で白沢道に合流する、藤原道。

最古の十和田湖縁起
​現存最古の「十和田湖縁起」とは
​ 数多くある龍神伝説の中で、最も古い≪十和田湖縁起≫とされているのが『三国伝記』です。360話を収録(インド・中国・日本のお坊さんたちが集まり伝記などをまとめた本)しています。

その第巻十二第十二話「釈難蔵(南祖坊)得不生不滅事」と 題する説話が、「十和田湖の龍神伝説」最古の縁起とされています。15世紀初め、天台系の僧「玄棟(げんとう)」による説話集「三国伝記」の中の「釈難蔵、不生不滅を得たること」は、以下のようなストーリーとなっています。


そこには、「十和田湖伝説」で語り継がれる八郎太郎の物語も、「三湖伝説」もありません。​実は、「南祖坊の物語」と「八郎太郎の物語」とは、元々、別の説話でした。

十和田湖で語られていたのは、南祖坊(難蔵、南宗坊ともいう)の物語で、八郎太郎の物語とは、鹿角など
米代川流域や八郎潟周辺、糠部地方、北上川流域一帯などで、語られていたものでした。​それが、江戸時代の後期に合体され、一つの説話になった経緯があります。
青龍権現水彩画購入済み25・11・09_edited.jpg
「玄棟(げんとう)」による説話集
「三国伝記」第巻十二第十二話「釈難蔵(南祖坊)得不生不滅事」と 題する説話
 
「本編」


昔、播磨国書写山に釈難蔵(僧難蔵=南祖坊)という法華経の行者がいた。
生きている間に、弥勒菩薩(みろくぼさつ)がこの世にあらわれる「弥勒の出世」に会いたいと願い、
熊野山に三年間参籠(さんろう)し、千日目の夜、「前世の宿縁によって現世で出会うことができるであろう」と

夢告がり、神のお告げを得る。

それに従い『陸奥と出羽の境」にある「言両の山/ことわけのやま」の頂にある大きな池に行き、

池の畔で読経に励んだ。

すると、

年のころ十八、九の池の主でる女が毎日聴聞にあらわれ、仏に結縁したいと願う。

女は「私の住処に来て衆生のために法華を読誦して欲しい」という。
難蔵が「私はここで弥勒の出世を待っているのだから、よそには 行けない」と断ると、
女は「私はこの池の主の龍女です」。
龍は、一生の間に千仏の出世に会うほどの長命な生き物、私と夫婦になって弥勒の下生を待ってはいかが」という。難蔵はなるほどと思案をめぐらし、龍女とともに池に住むことにした

ところが龍女から、
「自分は月の半分を言両山の池で暮らす奴可の嶽(ぬかのだけ/八甲田山)の八つの頭の大蛇の妻にされ、
困っている」と、打ち明けられる。

難蔵は少しも怯まず、法華経八巻を頭上に置いた。
すると、
難蔵の姿はたちまち九頭龍と変じ九つの頭の龍となり、八つの頭の大蛇と七日七夜にわたって激闘。
ついに八頭の大蛇が負けて大海に入ろうとしたが、
大きな松が邪魔をしたため、
威勢も尽きて小蛇となり、何処かの池に、逃げ帰った。

龍となった難蔵は、龍女と夫婦となって暮らし
今でも、山人が池の畔に至ると、激しい浪の下から法華経を読む声が聞こえるという。
南祖坊は聖観音の生まれ替わりで、奴可の嶽(ぬかのだけ)=(現在の八甲田山)の池に住む、八つの頭の大蛇が支配していた十和田湖を、平和で穏やかな「仏の海」に変え、大蛇に苦しめられていた十和田湖の龍女と夫婦になり、自らも青龍権現となって湖の主となったという、「最も古い十和田湖縁起」です。
十和田湖伝説や三湖伝説では、主人公はあくまでも南祖坊であり、八郎太郎は人々を苦しめる荒々しい大蛇でした。それがやがて、青年八郎太郎を主人公とする成長物語に改変された結果、南祖坊は脇役かつ悪役に追いやられています。
​ ※「青空の記憶」他、斎藤利男の「霊山十和田 忘れられたもうひとつの十和田湖」など、ご参照ください
青龍権現のご利益

迷いを鎮め、 力と勇気を授け、 開運と幸運へ導く!

天翔九頭龍
​十和田青龍大権現」(南祖坊)のご利益
御倉半島​奥院/御室を突然照らす「十和田青龍大権現の力・人々に寄り添う天の光」
​’25年11月下旬、HP制作の為、雨の中、,鉄の梯子を下り占場で最後の撮影!湖面に着くと、突然、雨がやみ黒い空が割れ、青龍の光が御室の真上から差し込んだ、信じがたい奇跡。目映い、光景です!

御倉半島​奥院/御室を突然照らす「十和田青龍大権現”神の力”人々に寄り添う、天の光」に、思わず絶句!

十和田青龍大権現イメージイラスト画

作家イラストレーターによる天翔青龍イメージ画

秋田県側観光台から望む十和田湖全景

​青龍宿る伝説の十和田湖

迷いを鎮め、力と勇気を授け、開運と幸運へ導く!「十和田青龍大権現」

平安時代から続く、散供打ち(青龍への占いと祈り)
「人の力の及ばぬ処、御神力をお慕いし、ご加護を授かりたい!」


悩める時、
あきらめる前に、必ず、お越しください!​

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Calm your doubts, grant strength and courage, and lead you to good fortune and good luck! "Towada Seiryu Daigongen"

Sanguuchi (divination and prayer to Seiryu) has been practiced since the Heian period.

"In places beyond human reach, we yearn for the divine power and seek its protection!"

When you're troubled,
before giving up, be sure to come and see us!
 修験道の拠点だった七崎山 徳楽寺(八戸市豊崎町)から、遥か、熊野へとたどり着き、「生きている間に、弥勒菩薩(みろくぼさつ)がこの世に現れる”弥勒の出世”に会いたい!」と願い、一心に、修業に身を投じ励んだ南祖坊。やがて、千日目に、神の夢告に導かれ、霊山十和田の開山の【上人】となります。

南祖坊が御倉半島の洞窟に籠り、一念に、お経を唱え続けたその信念は、遂に、神聖な「御室」の頑丈な岩盤さえ貫き、天まで届き、天が南祖坊に「青龍権現」を授けたその証として、ご神体の化身とする「龍の目」を岩盤に刻まれたのだと、伝承されています


天は、厳しい行場に身を投じ一心に法華経を唱える「南祖坊」を受け入れ、ご神体の化身として、最も神聖な御室の岩盤に、「龍の目」を刻み、「青龍権現を授けた」とされています。

南祖坊の一念は、「天を貫き、天を動かし、天が授けた青龍権現」とされています。
訪れる、ご参拝者の苦行苦難に寄り添い、
困難に立ち向かう勇気と、人々の心の迷いを悟り鎮め、勇気を与え前進へと導き、「開運と幸運を授ける青龍権現」とされています。

※法華経
(ほけきょう)とは、大乗仏教の重要な経典であり、多くの信者に影響を与え続けています。その教えは、すべての生き物が成仏できるという思想を強調しており、その教えを実践することで、成仏の道を歩むことができると説いています。お釈迦様が説いたとされる数ある経典の中でも、その「本当の心が表されているお経」として特に重要視されています。
勇気と前進: 困難に立ち向かう勇気や、心の迷いを鎮める力があるとされています。 

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  • 縁結び: 南祖坊は縁結びの力があるとされています。

  • 所願成就(諸願成就,心願成就): 南祖坊はあらゆる願い事を叶える力があるとされています。

  • 開運: 開運や幸運を授けるご利益があるとされています。

  • 水の神様: 龍神として、水の恵みやあらゆる浄化の力をもたらすとされています。

  • 勇気と前進: 困難に立ち向かう勇気や、心の迷いを鎮める力があるとされています。 

その他、青龍権現の化身の象徴は、以下のような重要な意味を持っています:

  • パワーや新しい生命の再生を象徴し、自然と宇宙の調和を表す存在です。

  • 東方を守護し、春の象徴として、成長や発展の力を帯びています。

  • 学問や学びの守護として、知恵を開く象徴とされ、新たな挑戦をサポートします。

  • 農業の神としても崇められ、農作物の成長を助けます。

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