北奥最大のパワースポット
十和田八幡平の聖地へようこそ
Welcome toTOWADA JINJA
十和田神社
主祭神
やまとたけるのみこと
日本武尊
末 社
熊野神社
稲荷神社
「奥宮」
十和田青龍大権現
「果報島」(御前ヶ浜)
恵比須天
大黒天
「開運の小道」
(北奥最大の山岳霊山「行場」の歴史遺産)
日の神
火の神
天の岩戸
金の神
山の神
風の神
「神 事」
十和田神社例大祭:旧暦の5月15日
「鎮 座」
青森県十和田市大字奥瀬字十和田湖畔休屋 四八六
能褒野に葬られたその陵から、「一羽の白鳥が飛び立ち、魂が白鳥と化し大和を目指し飛びたった」という伝説が『古事記』や『日本書紀』に登場する、大和朝廷の全国統一に貢献した英雄
やまとたけるのみこと
十和田神社の歴史
当社伝(神社の言い伝え)によると、創建は、大同2年(807年)坂上田村麻呂と伝えられています。東征の際、十和田湖が荒れて渡れず、祠を建てて祈願したことが始まりと伝承されています。
十和田神社は、明治以前は【額田丈嶽熊野山十彎寺】(こうだのたけくまのさんとうわんじ)を号する寺院でした。「十和田青龍大権現」(南祖坊/なんそのぼう)を祀り、現在の拝殿の場所には、「聖観音」を本地仏として安置する仏堂【十和田御堂】が建っていました。
神仏分離令・神仏判然令は、その意図を超え「廃仏毀釈」へと発展
明治維新政府が発布した神仏分離令とは、【天皇を中心とする新しい国家体制を強化し、祭政一致(祭祀と政治を一致させること)を目指す、明治政府の意図によるものでした。】
1868年(明治元年)に明治政府が発布した、神道と仏教を分離し、神社の仏教的要素を排除した政策です。この政策は「神仏判然令」とも呼ばれ、仏教的な要素を持つ神社の改変や、神社に付属していた僧侶(別当・社僧)への、還俗命令などが含まれていました。
ところが、結果として、明治維新政府が意図した「分離」の範囲を超え、仏教寺院や仏像、経典などの破壊を伴う激しい「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動」が全国的に広がりました。これにより、多くの貴重な文化財が失われ、日本の宗教・文化景観に、大きな影響を与えました。
十和田青龍大権現を祀る「十彎寺」から、日本武尊を祀る「十和田神社」へ
十和田神社は、明治維新政府が発布した「神仏分離令」/「神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)」の激しい嵐にさらされた歴史があります。
明治5年(1872)には修験宗が廃止され、修験は、天台宗か真言宗に属するか、神職になるか、環俗するかを命じられました。強制は、信仰にまで及び、神仏習合による権現や御霊神は排除されて、古事記・日本書紀の「日本古来の神に戻す」ことが共用されました。
名高い霊山筑波山では、信仰の拠点だった「中禅寺」が徹底的に破壊され、いざなぎ・いざなみの尊を祭神とする、「筑波山神社」に替えられた結果、参詣者を失って繁栄を極めた筑波門前町は、消滅しています。
それは、霊山十和田でも同じでした。当時の十和田別当「織田氏」は、「十彎寺」を「十和田神社」とし、青龍大権現を外に移して、祭神を「日本武尊」と申し立てたが認められず、明治6年(1873)、尾瀬の新羅神社に合祀(同じ場所にいくつかの神を祀ること)されて、御堂は、取り壊されました。
2年後に復社を許され、御堂の跡地に、主祭神「日本武尊」をお祀りし、ささやかな社殿が建立されましたが、一方では、十和田信仰は大きな打撃を受けました。
その後、時代は変貌を遂げてゆきます。
十和田銀山の発展により人口数百人が一千人へ、そして、更に、時代は更新されてゆきます。→原生林の伐採・開拓・養魚業→水力発電を経て、明治の終わりから「本格化した十和田観光の推進」により、観光時代を迎えます。
こうした中で、十和田神社「社司織田氏」は、奥入瀬から休屋に居を移し、管理下の参詣小屋を提供して参詣者をねぎらい、休屋初の「旅館」を設け、一方では、失われてゆく霊山十和田の歴史・文化の継承に総力を注ぎ、苦難を乗りこえ、こうした時を経て今日に至っています。
十和田信仰の伝統の保持に、十和田神社が果たした当時の役割とその功績は、今日の繁栄の礎となっています。
新しい時代を迎え、世界中から多くの観光客が、ご祈祷・ご祈願・散供打ち(さんぐうち)にお越し下さる昨今です。こうして訪れる、世界中の人々を介して【更なる、十和田神社の未来へ】と、受け継がれていくことを願ってやみません。
十和田八幡平国立公園の「守護神」